れで読む人はありがたがる。書く人は成功する。ばかりじゃない、傍《はた》から見ても、旧来の評価を無理に維持しようとする情操文学よりも必要の度が多いでしょう。
次に日本では情操文学も揮真文学も双方発達しておりませんのは、いくら己惚《うぬぼれ》の強い私も充分に認めねばなりませんが、昔から今日《こんにち》まで出版された文学書の統計を取って見たら、無論情操文学に属するものが過半でありましょう。のみならず作物の価値から云ってもこの系統に属する方が優《まさ》っているようであります。それは当然の事で客観的叙述は観察力から生ずるもので、観察力は科学の発達に伴って、間接にその空気に伝染した結果と見るべきであります。ところが残念な事に、日本人には芸術的精神はありあまるほどあったようですが、科学的精神はこれと反比例して大いに欠乏しておりました。それだから、文学においても、非我の事相を無我無心に観察する能力は全く発達しておらなかったらしいと思います。くどくなりますから、例も引きませんが、これだけで充分|御合点《ごがてん》は参るだろうと存じます。これを別方面の言葉で云うと、子はみんな孝行のもの、妻は必ず貞節あるものと認めていたらしいのであります。だから芝居でも小説でも非常な孝行ものや貞節ものが、あたかも隣り近所に何人でもいるかのごとき様子であらわれて参るのみならず、見物や読者もまた実際にいくたりでも存在しているうちの代表者だと云わぬばかりの顔つきで、これに対していたのであります。いたのでありますと云うと私が元禄時代から生きていたように当りますが、どうもそうに違いないと思います。あんな芝居や書物を見る人は、真面目《まじめ》に熱心に我を忘れて釣り込まれていたに違ないんでしょう。それでなければ今日まで伝わる前にとくに湮滅《いんめつ》してしまうはずであります。そうすると、ある御嬢さんは朝顔になったり、ある細君は御園になったり、またある若旦那《わかだんな》は信乃や権八の気でいたんでしょう。そりゃ満足でしょう。自己の情操を満足させるという点から云ったら満足に違ない。自分ばかりじゃない、自分の子や女房や夫をこんなものだと考えていたら定めし満足に違いない。もっともあの時代に出てくる悪党はまた非常なものでとうてい想像ができないような悪党が出て来ますが、これは善人を引き立てるためなんだから、こちらには誰もなろうと志願するものはないから安心です。それじゃ善と悪の混血児《あいのこ》はというとほとんど出て来ないんだから、至極《しごく》単簡《たんかん》で重宝であります。こう云う訳で一家町内芝居へ出てくるような善人で成り立っていたのであります。それじゃ天下太平なものでありそうだのに、やっぱり夫婦喧嘩《ふうふげんか》も兄弟喧嘩もありました。あったに違なかろうと、まあ思うのです。しかもこの喧嘩が彼らが完全なる善人であったと云う証拠《しょうこ》になるから、不思議であります。ちとパラドックスになり過ぎますが、およそ喧嘩のもとは御互を完全の人間と認めて、さてやってみると案外予期に反するから起るのであります。だから喧嘩をするためには理想が必要であります。次にこの理想と実際とは一致しているものだと認める事が必要であります。今日も喧嘩は毎日ありますが、何も理想的人物でないから癪《しゃく》に障《さわ》るというような野暮《やぼ》は中学生徒のうちにも、まあないようで至極《しごく》便利になりました。その代り人間の相場はいささか下落致したようなものの結句こっちが住み安いかのように存ぜられます。ところが旧幕時代には、みんな理想的人物をもって目され、理想的人物をもって任じていたのでありますから、大変窮屈でございましたろう。何ぞと云うと、町人のくせになかと胸打などを喰います。女房のくせに何だむやみにふくれてなどとどやされます。子供のくせに何だ親に向って口答をしてなどとやり込められます。とかく何々のくせにと、くせが流行した世の中であります。癖に[#「癖に」に傍点]の流行《はや》る世の中ほど理想の一定した世の中はないのであります。町人はかくあるべきもの、女房はかくすべきもの、子供はかく仕えべきものと、杓子定規《しゃくしじょうぎ》で相場がきまっております。もっともこれは双方合意の上でなければ成立しない訳でありますから、町人の方でも、子供の方でも、女房の方でも、どんな理想的人物をもって予期されても、立派にその予期を充《み》たすつもりでいたのであります。したがって自分は天下一の孝行者で、天下一の貞女で、天下一の町人――は、ちとおかしいが、何しろ立派なものと心得ていたんでしょう。この己惚《うぬぼ》れていれば世話はない。たいていの事が否応《いやおう》なしに進行します。万事が腹の底で済んでしまいます。それで上部《うわべ》だけはどこまでも理想通りの人物を標榜《ひょうぼう》致します。ちと偽善になるようですが、悪徳の天真瀾漫《てんしんらんまん》よりは取り扱いやすいから結構です。中には腹の底で済んだなとさえ気がつかないでいるものもたくさんあったそうです。
この有様で御維新まで進んで参りました。それから科学が泰西から飛んで参りました。今日《こんにち》まで約四十年立ったので、大分趣が変って参りました。科学の訓練を経た眼で、人を見たり、自分を見たりする事が大分|流行《はや》って参りました。しかしこの精神が一般に行き渡っていないため、かつはあまり大切でないため今日まであまり進歩しておりません。なぜ大切でないかと考えて見ると面白いのであります。自分で自分の腹の中を検査して見ると、そう自慢になる事ばかりはありゃしません。自分ながらあさましい事もたくさん出て来ます。しかしいくら浅間しいものが見当った見当ったと云って触れて歩いたって、自分の恥になるばかりで、あまり発明家として尊敬を払っては貰えません。だからせっかく発見しても黙ってる方が得策であります。骨を折って、探がし当てて、自分一人で気持をわるくして、そうして苦《にが》い顔をして塞《ふさ》いでいるのも、あまり景気のいいものでもありませんから、つい遠慮が無沙汰《ぶさた》になりがちで、吾身で吾身が分ったような、分らないような心持でその日その日とぶらついております。こうしていれば、いつまで己惚れていたって、変事が起らない限りは大丈夫、己惚れつづけに己惚れて死ねますから、せっかく土をかけた所を掘り返して腐った死骸《しがい》をふんふん嗅《か》いで見るなんて、むく犬の所作《しょさ》をするには及ばん仕儀になります。私もその一人であります。私の妻もその一人であります。折々はあれでも令夫人かと思う事もありますから、向うでも、あれがわが郎君かと愛想をつかす事もあるんでしょう。それでも私は立派な夫《おっと》のつもりですましていますから、奥方の方でも天下の賢妻をもって自任しておられる事と存じます。かようの己惚《うぬぼれ》は存外多いもので、諸君まで私共の仲間へ引き入れるのは恐縮でありますが、なるべく勢力範囲を拡張しておく方が勝手でありますから、遠慮のないところを申しますと、滔々《とうとう》たる天下皆然りと申しても差支《さしつかえ》ないかも知れません。腹の奥の方では博士を宛にしていながら、口の先では熱烈な恋だなどと云うのがあります。そうかと思うと持参金が欲しいような気分を打ち消して、なにあの令嬢の淑徳《しゅくとく》を慕うのさとすましきっています。それで偽善でも何でもない、両方共|真面目《まじめ》だから面白いものです。そこで我々のような観察力の鈍いものは、なるべく修養の功を積んで、それから、大胆な勇猛心を起して、赤裸々《せきらら》なところを恐れずに書く事を力《つと》める必要が出て参ります。
それでは今日の文学に客観的態度が必要ならば、客観的態度によって、どんな事を研究したらよかろうと云う問題になります。私は私の気のついた数カ条を御参考のために述べて、結末をつけます。
第一は性格の描写についてであります。これは小説とか劇とかに必要なもので、作家がこの点において成功すれば、過半の仕事はすでに結了したものとまで思われております。そこで俗に成功した性格とはどんなものかと調べて見ると活動の二字に帰着してしまいます。またどう考えてもこの二字以外には出られないように思います。しかし、活動にもいろいろあるがいかなる意味の活動か一と口に云えるかと聞かれると、少し臆断《おくだん》過ぎるようですが、私はこう答えても差支《さしつかえ》ないと考えます。普通の小説で、成功したものと称せられている性格の活動は大概矛盾のないと云う事と同一義に帰着する。これを他の言葉で云いますと、ある人が根本的にあるものを握っていて、千態万状の所作《しょさ》にことごとくこのあるものを応用する。したがって所作は千態万状であるが、これを奇麗《きれい》に統一する事ができる。しかもこれを統一するとこのあるものに落ちてしまう。なお言い換えると、描写された性格が一字もしくは二三字の記号につづまってしまう。勇気のある人、親切な人、吝嗇《りんしょく》な人と云った風に簡単になる、すなわち覚えやすくなる。まあ、こんなものではなかろうかと思います。つまりは、一篇の小説に一定の意味があって、この意味を一句につづめ得るのを愉快に思うように、同じく一句につづめ得る性格をかき終せたものが成功したような趣が大分あります。しかしこの意味で成功した性格は、個人性格の全面を写し出したものではありません。(特別の場合を除いては)個人の全面性格のある顕著な特性を任意に抽出《ちゅうしゅつ》して、抽出しただけを始めから終まで貫ぬかして、作家にも読者にも都合のいい性格を創造したものであります。しかも自然の法則に従って創造したものではなくって、小説の世界に便宜《べんぎ》を与うるために、ある程度まで自然の法則を破って、創造したものであります。普通の場合において、個人の性格中のある特性が、その個人の生涯《しょうがい》を貫ぬいている事は事実であります。がこの特性だけで人物が出来上っておらん事も事実であります。のみか、この特性に矛盾反対するような形相をたくさん備えているのが一般の事実であります。だから諺《ことわざ》にも近侍の眼から見れば英雄もまた凡人に過ぎずと申します。極めて簡単で例にならんほどの例でありますが、人事には大変冷淡な人が、健康だけには恐ろしく神経過敏に見える事があります。家族には無愛想極まっても朋友《ほうゆう》にはこの上なく叮嚀《ていねい》な男もございます。こう云う点を詳《くわ》しく調べてみたらば、あるいは矛盾のある方が自然の性格で、ない方が小説の性格とまで云われはしますまいか。
そこで小説家、戯曲家うちでもこの点に注意し出して、ついに矛盾の性行をかくようになりました。そうして読者もこれを首肯するようになりました。柔順であった妻君が、ある事情のもとに、急に夫《おっと》に反抗して、今までに夢想し得なかった女丈夫になるというような例であります。しかしこれは在来の叙述を一歩複雑の方面へ進めたものに過ぎません。と云うのは、明かに矛盾した特性をことさらに並べて、対照の結果読者の注意をこの二焦点に集注するからであります。だから性格の複雑という事だけを眼中に置いて見ると、これはまだまだ単調のものであります。だからあくまでも客観的に性格の全局面を描出しようとすれば、今までの小説や戯曲にあらわれたよりも遥《はる》かに種々な形相が出て来る訳であります。そうして形相が異なるに従って、相互の間に一致がないように見えて来るのは、やむをえぬ結果であります。したがって描写が客観的に微妙であればあるほど、纏《まと》まりがつかぬ性格ができやすいでしょう。一言にして蔽《おお》う事のできない性格になりやすい、記憶に不便な性格になりやすいでしょう。要するに大変できのわるい、下手にかいた性格のように見えてくるでしょう。従来のかき方は、ここに風邪《かぜ》を引いた人があるとすると、その人の生涯《しょうがい》を通じて、風邪を引いた部分だけを抽
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