ち》を離別致して、すぐ向うの反物屋へ嫁に行ったそうです。それで、嫁に行った明くる日から、店先へ坐《すわ》って、もとの亭主と往来を隔《へだ》てて向きあっているんだそうです。私にこの話をして聞かせたものはあさましいと云わぬばかりな顔をして、田舎《いなか》のものは呑気《のんき》なものだと云って笑っていました。この二つの話を取って調べて見ますとよほど似ております。しかし前のは浪漫派の中心で起った事で、後のは――何派だかちょっと困りますが、まあ自然派の作にでもありそうに見えます。しかし事実はどうしても同じなんだから致し方がない。それじゃ同じものが、どうして浪漫派になったり、自然派になったりするんでしょう。まあ説明するとこんな訳じゃありませんか。浪漫派の人は主観的傾向に重きを置くもので、愛はその傾向のもっとも顕著なるものでしたがってもっとも神聖なものであります。愛と云う分子があればこそ結婚とか夫婦|同棲《どうせい》とかいう形式の内容に意味がある訳だから、この内容がなくなる以上は、どんな形式だって構やしません。三下《みくだ》り半《はん》を請求する方もその覚悟、やる方もその了見《りょうけん》だから双方
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