共|洒然《しゃぜん》として形式のために煩《わずら》わされないのであります。ところが反物屋の方になると愛に重きを置いた出来事かも知れないが、始めから愛のない結婚で出ても引いても同じ事なのかも知れない。それはどう解釈するにしても、我々はそう云う動機を見るのじゃない、普通の約束的の徳義を破壊した行為だという点を認めるのであります。徳義を棄《す》てた露骨の人性かもしくは野性がそのまま出た所作《しょさ》だと見るのであります。カロリーネの方は離縁したり結婚したりするのを善い事、美くしい姿と思ってやるのです。反物屋の神《かみ》さんはそんな事を考えちゃ――まあいないでしょう。だから見るものの方でも、そんな人間もあるかね、はあそうかねと一つの事実として認めるのであります。だからこの二つの話を叙述する時には、ただ叙する時の態度が違うのであります。ところがさっき申した通り「眉《まゆ》のような月」と云う叙述が、どっちの態度にもなる訳ですから、この結婚問題の叙述もまたどっちの態度にも受け取られるかも知れない。いくら反物屋の神さんを書いても主観的の叙述だと人が読むかも知れず、カロリーネの嫁入事件を写しても客観的の
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