のですから、他人にはよほど通用しにくくなる訳であります。一を聞いて十を知ると云う事がありますが、一を見て十を感ずる人でなければできない事です。しかも一を見て十を感ずる、その感じかたが、云いあらわした本人と一致しているかどうかに至るとはなはだむずかしい問題であります。要するに象徴として使うものは非我の世界中のものかも知れませんが、その暗示するところは自己[#「自己」に傍点]の気分であります。要するにおれ[#「おれ」に傍点]の気分であって、非常に厳密に言うと他人の気分ではない、外物の気分では無論ない。という傾向のあるところから、この種の象徴を主観的態度の第三段に置いて、数学の公式などの対と見立てました。(シモンズの仏蘭西《フランス》の象徴派を論じた文のなかに、こんな句があります。「我々が林中の木を一本一本に叙述するの煩《はん》を避けて、自然を怖《おそ》れて逃がれんとするがごとくもてなすと、ますます自然に近くなります。また普通の俗人は日常の雑事を捉《とら》えて実在に触れていると考えておりますが、これらの煩瑣《はんさ》な事件を掃蕩《そうとう》してしまうと、ますます人間に近くなるものであります。
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