にする意味になるから、客観的態度に重きを置いた叙述と云わねばなりません。ただ注意すべき事はこの際主観的分子が無くなったと解釈してはならんのであります。現に色を視、音を聞く以上は、この経験を綜合して我以外に抛《な》げ出すと、抛げ出さざるとに論なく、色も音も依然として、一方では主観的事実であります。
 これで私のいわゆる perceptual な叙述の意味は大概御分りになりましたろう。ところが、属性が複雑になるに従って、叙述が長たらしくなります。長たらしくなると、叙述をする当人も迷惑であり、叙述を聴くものは一度に纏《まと》めかねるようになります。したがってこの叙述を簡単にするためには、勢い叙述されべき物に類似のもので、聞く人の頭の中に、すでに纏って這入《はい》っているものを持ち出して代理をさせるのが便利になります。例えば※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》を見た事のない西洋人に※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]を説明するよりも赤茄子《あかなす》のようだと話す方が早解りがするようなものであります。もちろんこの代理になる赤茄子の考が先方の頭のなかになくては駄目で、考が
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