較的と云う文字を挿入《そうにゅう》して御考を願うよりほかに致し方がありません。それから客観的態度で時間の内容を写して行くと(ある一物につき)この連続が因果《いんが》になるには相違ありませんから、いくら散漫でも滅裂でも神秘でも因果を離れるとは申されません。ただその因果が、因果の律にまとめられるほどに、経験上熟知されていないから、散漫で滅裂で神秘と見るまでの事であります。だからこの種の因果の経験を繰《く》り返《かえ》して、その中から因果の律を抽象する事ができると同時に、散漫は統一に帰し、神秘は明白になります。(性格の描写に関連して研究の価あるのはムードの観察であります。ムードの描写は昔の小説にはほとんどないと思います。しかもこのムードから面白い行為が出て、たしかに興味のある結果を生じます。ムードと性格の関係その他は今は述べません。また述べられるだけに頭が整っておりません)
性格の解剖についでは、心理状態の解剖であります。最も性格と関係があるのは無論でありますが、一言にして云うと今日の人の心的状態は昔《むか》しの人の心的状態より大分複雑になっておりますからして、同一の行為でも、その動機が遥《はる》かに趣を異にしている訳で、そこを観察したら、充分開拓の余地があると申す意味でございます。例《たと》えばここに一人の男があって人殺しをする。なぜ人殺しをしたかと云うに人殺しが目的ではない、ほんの方便で、人殺しをしたあとの心持ちを痛切に味わってみたいというような芸術家が出て来たとするならば――まだあんまり出ないようですが――どうでしょう。いくら説明したって元禄時代の人物には分らないにきまっている。というものはこの男の人殺しに対する評価は、人殺しから生ずる自己の心裏《しんり》の経験に対する評価より遥かに相場が安いのであります。平たく云えば人殺しと云う事をさほどわるく思っていない。のみならずわざと罪を犯しておいて、犯したあとの心持を痛切に味わうというような込みいった考えはとうてい大石良雄や室鳩巣《むろきゅうそう》などに分るものではありません。もちろん今の人にでも分らんかも知れませんが、今の人ならばほぼ想像はつきますから、それまで複雑なのに違ありません。また恋と云う一字でもこの頃になると恋という一字では不充分なくらい種類ができはしまいかと思われます。すでに沙翁《さおう》のかいたものでも分ければ幾通りにも分けられる恋が書いてありますが、近代に至るとその区別がますます微細になりはせぬかと思われます。ゴンクールの書いたラフォースタンと云う小説のなかにはこんなのがあります。有名な女優があって、この女優がある英国の貴族と慇懃《いんぎん》を通じたままそれぎり幾年か音信不通の姿でおりましたところ、貴族の方では急に親が死んで、莫大《ばくだい》の遺産を相続するような都合になったので、今は結婚その他の点についても何人も喙《くちばし》を挟む事のできない身分でありますから、多年恋着していた婦人を正式に迎えるのはこの時と云うので、狂うばかりに喜んで、仏蘭西《フランス》へ渡りますと、女の方も固《もと》より深い仲の事でありましたから、泣いて分れたその日の通り大事に男の事を思いつづけていた折で、無論異存のあるはずはございません。めでたく結婚致します。それだけだとこれも陳腐《ちんぷ》なのですが、これから先が山であります。さて結婚をしてみると夫の方では金に不足のない身ではあるし、女房を女優にしておくのは何となく心配ですから、もう廃業したら善かろうと云う相談を持ちかけます。ところが細君の方はもともと役者が性《しょう》に合っている訳なんだからかどうか分りませんが、何となく廃《や》めたくなかったのであります。しかし可愛い男の云う事だから、厭《いや》な心を抑えて亭主の意に従います。それから二人で非常な贅沢《ぜいたく》をやります。嬉《うれ》しい中でいっしょになって、金を使いたいだけ使うんだから、幸福でなければならないはずですが、そこが妙なもので、細君が女優をやめてからというものは何となく気色が勝《すぐ》れなくなります。いくら夫が機嫌《きげん》をとっても浮き立ちません。と云って固々《もともと》憎《にく》い男ではないんだから粗略にする訳はない。しんそこ夫の事はいとしく思っているのであります。ただ心が陽気になれないだけなのですが、夫の方では最愛の細君の一顰一笑《いっぴんいっしょう》も千金より重い訳ですから、捨ておかれんと云うので慰藉《いしゃ》かたがた以太利《イタリー》へ旅行に出かけます。しかるに男は出先で病気に懸《かか》ります。細君は看病に怠りはございませんが、定業《じょうごう》はしかたのないものでとうとう死んでしまいます。その死ぬ少し前に例の通り細君が看病のため枕辺へ寄り添いますと、男はいつになく
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