家にも読者にも都合のいい性格を創造したものであります。しかも自然の法則に従って創造したものではなくって、小説の世界に便宜《べんぎ》を与うるために、ある程度まで自然の法則を破って、創造したものであります。普通の場合において、個人の性格中のある特性が、その個人の生涯《しょうがい》を貫ぬいている事は事実であります。がこの特性だけで人物が出来上っておらん事も事実であります。のみか、この特性に矛盾反対するような形相をたくさん備えているのが一般の事実であります。だから諺《ことわざ》にも近侍の眼から見れば英雄もまた凡人に過ぎずと申します。極めて簡単で例にならんほどの例でありますが、人事には大変冷淡な人が、健康だけには恐ろしく神経過敏に見える事があります。家族には無愛想極まっても朋友《ほうゆう》にはこの上なく叮嚀《ていねい》な男もございます。こう云う点を詳《くわ》しく調べてみたらば、あるいは矛盾のある方が自然の性格で、ない方が小説の性格とまで云われはしますまいか。
そこで小説家、戯曲家うちでもこの点に注意し出して、ついに矛盾の性行をかくようになりました。そうして読者もこれを首肯するようになりました。柔順であった妻君が、ある事情のもとに、急に夫《おっと》に反抗して、今までに夢想し得なかった女丈夫になるというような例であります。しかしこれは在来の叙述を一歩複雑の方面へ進めたものに過ぎません。と云うのは、明かに矛盾した特性をことさらに並べて、対照の結果読者の注意をこの二焦点に集注するからであります。だから性格の複雑という事だけを眼中に置いて見ると、これはまだまだ単調のものであります。だからあくまでも客観的に性格の全局面を描出しようとすれば、今までの小説や戯曲にあらわれたよりも遥《はる》かに種々な形相が出て来る訳であります。そうして形相が異なるに従って、相互の間に一致がないように見えて来るのは、やむをえぬ結果であります。したがって描写が客観的に微妙であればあるほど、纏《まと》まりがつかぬ性格ができやすいでしょう。一言にして蔽《おお》う事のできない性格になりやすい、記憶に不便な性格になりやすいでしょう。要するに大変できのわるい、下手にかいた性格のように見えてくるでしょう。従来のかき方は、ここに風邪《かぜ》を引いた人があるとすると、その人の生涯《しょうがい》を通じて、風邪を引いた部分だけを抽《ひ》き抜《ぬ》いて書くのですから、分りやすく明暸《めいりょう》になる代りにははなはだ単調にして有名なる風邪引き男が創造されてしまいます。本来を云うと病気の時と、丈夫な時と、病気でも丈夫でもない時と三通りかいて、始めてその人の健康の全局面が、あらわれると云わなければなりません。しかし、そうすると、どうしても散漫に見えます。要領を得ないように見えて来ます。風邪でもこの通りですが、性格はこれよりも遥《はる》かに複雑であります。例えばAなる性格の第一行為をA1[#「A1」は縦中横、「1」は上付き小書き]とすると、A1[#「A1」は縦中横、「1」は上付き小書き]からして類推のできるA2A3A4[#「An」はそれぞれ縦中横、数字は上付き小書き]を順次に描出して行けば、全局面は無論出て来ない。たいていは一特質の重複に近くなります。もしA1A2A3A4[#「An」はそれぞれ縦中横、数字は上付き小書き]が因果の法則で連結されておって、この諸行為の内容に密接な類似を示すときは、重複が変じて発展となります。発展ではあるがA1[#「A1」は縦中横、「1」は上付き小書き]が基点であって、そのA1[#「A1」は縦中横、「1」は上付き小書き]は全性格の一特性であるからして、A1[#「A1」は縦中横、「1」は上付き小書き]の発展もまた全性格の発展と見傚《みな》す訳には参りません。私はこの種の重複でも発展でも文学上価値のないものと断言するのではないのですが、そちらはすでに大分ある事だから、全性格の描写と云う方に客観的態度をもって少しく進んでみたら開拓の余地がたくさんあるだろうと思います。その代り在来の小説を読んだ眼から見れば、散漫になります、滅裂になりやすいです、または神秘的に変じましょう。しかし吾人が客観的描写に興味を有してくると、漸々《ぜんぜん》この散漫と滅裂と神秘を妙に思わないような時機が到着しはせまいかと思われます。言葉を換えて云うと形式の打破をある程度まで意に留めなくなりはせまいかと考えるのです。しかし一応は御断りを致しておきます。吾々の世界はすでに冒頭において述べた通り撰択《せんたく》の世界であります。光線にしても、音響にしても、一定の振動数以上もしくは以下のものは、見る事も聞く事もできない有様でございます。性格の全部と云ったところで、全部がことごとく観察され得るとは申しません。無論比
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