荒々しい調子で、手をもって細君を突き退《の》けるばかりに、押し返して、御前は必竟《ひっきょう》芸術家だ。本当の恋はできない女だと云うのです。それが結末であります。御前は必竟芸術家だ本当の恋はできない女だ。これが一種の恋でありましょう。有名なルージンの恋も普通一般の恋ではありません。ルージン一流の恋であります。ズーデルマンの書いたフェリシタスの恋などはもっとも特色を帯びた一種の恋のように思います。これが日本の昔であってみると、大概似たもののように見えます。八重垣姫《やえがきひめ》の恋も、御駒才三の恋も、御染久松《おそめひさまつ》の恋も、まあ似たり寄ったりであります。なぜ似たり寄ったりかというと、異種類の恋はなかったと解釈する事もできますしまた、観察力が鈍かったからだと断定する事ができますが、まず両方と見ておきましょう。がまずざっと、こんな訳でありますから、かように複雑になりつつある吾々の心のうちをよく観察したら、いろいろ面白い描写ができる事だろうと思います。
あまり長くなりますから、あとはなるべく手短かに指摘して通り過ぎるくらいに致します。次には、人生の局部を描写して、これを一句にまとめ得るような意味を与える事であります。落語家のいわゆる落ちをつけた小説のようなものになります。これは近頃大分流行致しておりますから、別段|布衍《ふえん》する必要もございますまい。ただ御注意だけに留《とど》めておきます。前の例などもここに応用ができます。「御前は必竟芸術家だ。本当の恋はできない」これが一篇の主意の落着するところであります。ただし落ちを取る目的は綜合《そうごう》にあるので、前の二カ条は解剖が主でありますから、目的の方角は反対になります。だからちょっと区別しておきました。
次には、人生において、容易に注意を払っておかなかった現象、したがって滅多《めった》にない事という意味にもなりますが、この方面にも大分新らしい材料がある事と思われます。この間友人からこんな話を聞きました。その男の国での事でありますが、ある芸妓《げいしゃ》がある男と深い関係になっていたのだそうで。その両人がある時船遊びに出ました。そこいらを漕《こ》ぎ廻った末、都合のいい磯《いそ》へ船をもあいまして、男が舟を棄《す》てて岸へ上りました。ところが岸辺に神社か何かあると見えて、磯からすぐに崖《がけ》になって、崖のなかから石段が海の方へ細長くついております。男はその石段を登ったんだそうです。女は船のなかから、石段を上って行く男の後姿を見ていたそうです。その後姿を見ていた時、急に自分の情夫に愛想をつかしてしまったんだと友人は話しましたが、その源因は私にも、友人にも、本人の芸者にも無論分りません。これと類似の例をゼームスの宗教的経験と云う本や、スターバックの宗教心理学で見た事がありますが、個人の経歴譚《けいれきたん》として聞いたのはこれが始めてであります。これはあまり突飛な例かも知れませんが、こんな経験で文学の形になってあらわれておらないものが大分あるだろうから、そういう研究をしたら材料はずいぶん出て来はすまいかと思っております。
このほか因果の関係で人の気につかなかった事やら、類型を脱した個性をかく方面やらいろいろあるだろうと思いますが、この三四カ条は理論上これこれに分れると云うのでなくって、ただ思いついた事を列《なら》べたまででありますが、どこで切っても同じ事でありますからこれでやめておきましょう。しかし今日の吾邦《わがくに》に比較的客観態度の叙述が必要であると云う事は、向後何年つづく事か明らかには分りません。西洋では illuminism が盛《さかん》に行われた、十八世紀の反動として十九世紀の前半に浪漫的趣味の勃興《ぼっこう》を来《きた》しました。それが変化してまた客観的態度に復して参りました。二十世紀はどうなるか分りません。この二潮流が押しつ押されつしているうちに、つまりは両方が一種の意味において一様に発達して参ります。そうして発達した両方が交り合って雑種の雑種というようなものが、いくらでもその間に起って参ります。右へ行ったり左へ寄ったりするのは、つまり態度だけの話で、この態度から出る叙述はけっして繰《く》り返《かえ》されるものではありません。どこか変って参ります。杜撰《ずさん》ながら自分の考では、世間一般の科学的精神が、情操の勢力より比較的強くなって、平衡を失いかけるや否や、文壇では情操文学が隆起して参りますし、また情操の勢力が科学的精神を圧迫するほどに隆起してくると、客観文学が是非とも起って参る訳だと考えます。文壇はこの二つの勢力が互に消長して、平衡を回復し、回復するかと思うと平衡を失して永久に発展するものでありましょう。であるから同時同刻にせよ西洋の文学にあらわれ
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