程を抜きにして、すぐさま結局だけを応用する事ができるから非常に調法で便利であります。現に電信、電話、汽車、汽船を始めとして、およそ我国に行われるいわゆる文明の利器というものはことごとく物真似から出来上ったものであります。至極《しごく》よろしい。人に餅《もち》を搗《つ》かして、自分が寝ながらにしてこれを平げるの観があって、すこぶる痛快であります。がこの現象をすぐ応用して、文学などにも持って行ける、また持って行かなければならないと結論しては、少し寸法が違ってるように思います。と云うものは理学工学その他の科学もしくはその応用は研究の年代を重ねるに従って、一定の方向に向って発達するもので、どの国民がやり出しても、同程度の頭で同程度の勉強をする以上は一日早くやれば早くやった方が勝になるような学問で、しかも一日後れたものは、必ず、一日早く進んだものの後《あと》を(一筋道である)通過しなければならない性質のものであります。歩く道が一筋で、さきが進んでいる以上は、こっちの到着点も明らかに分っているんだから、できるだけ早く甲《かぶと》を脱いで降参する方が得策であります。真似をすると云うと人聞《ひとぎき》が悪いが骨を折らないで、旨《うま》い汁を吸うほど結構な事はない。この点において私は模傚に至極《しごく》賛成である。しかし人間の内部の歴史になると、またその内部の歴史が外面にあらわれた現象になると、そう簡単には行きませんようです。風俗でも習慣でも、情操でも、西洋の歴史にあらわれたものだけが風俗と習慣と情操であって、外に風俗も習慣も情操もないとは申されない。また西洋人が自己の歴史で幾多の変遷を経て今日に至った最後の到着点が必ずしも標準にはならない。(彼らには標準であろうが)ことに文学に在《あ》ってはそうは参りません。多くの人は日本の文学を幼稚だと云います。情けない事に私もそう思っています。しかしながら、自国の文学が幼稚だと自白するのは、今日の西洋文学が標準だと云う意味とは違います。幼稚なる今日の日本文学が発達すれば必ず現代の露西亜《ロシア》文学にならねばならぬものだとは断言できないと信じます。または必ずユーゴーからバルザック、バルザックからゾラと云う順序を経て今日の仏蘭西《フランス》文学と一様な性質のものに発展しなければならないと云う理由も認められないのであります。幼稚な文学が発達するのは
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