必ず一本道で、そうして落ちつく先は必ず一点であると云う事を理論的に証明しない以上は現代の西洋文学の傾向が、幼稚なる日本文学の傾向とならねばならんとは速断であります。またこの傾向が絶体に正しいとも論結はできにくいと思います。一本道の科学では新すなわち正と云う事が、ある程度において言われるかも知れませんが、発展の道が入り組んでいろいろ分れる以上はまた分れ得る以上は西洋人の新が必ずしも日本人に正しいとは申しようがない。しかしてその文学が一本道に発達しないものであると云う事は、理窟《りくつ》はさておいて、現に当代各国の文学――もっとも進歩している文学――を比較して見たら一番よく分るだろうと思います。近頃のように交通機関の備った時代ですら、露西亜文学は依然として露西亜風で、仏蘭西文学はやはり仏蘭西流で、独乙《ドイツ》、英吉利《イギリス》もまたそれぞれに独乙英吉利的な特長があるだろうと思います。したがって文学は汽車や電車と違って、現今の西洋の真似をしたって、さほど痛快な事はないと思います。それよりも自分の心的状態に相当して、自然と無理をしないで胸中に起って来る現象を表現する方がかえって、自分のものらしくって生命があるかも知れません。
 もっとも日本だって孤立して生存している国柄《くにがら》ではない。やっぱり西洋と御付合をして大分ばた[#「ばた」に傍点]臭《くさ》くなりつつある際だから、西洋の現代文学を研究して、その歴史的の由来を視て、ははあ西洋人は、今こんな立場で書いてるなくらいは心得ておかなくっちゃなりません。たとえ夢中に真似《まね》をするのが悪いと云っても、先方の立場その他を参考にするのはもちろん必要であります。文学は前《ぜん》申したような特色のものではありますが、その特色の中《うち》には一本調子に発達する科学の影響がたくさん流れ込んで来ますから、定数として動かすべからざるこの要素が、いかに科学の進歩に連れて文学の各局部を冒《おか》しているかを見るのは、科学思想の発達しない日本人が、いたずらに自己の傾向ばかりふり廻していては、分らないので、そう頑張《がんば》っていてはついには正宗の名刀で速射砲と立合をするような奇観を呈出するかも知れません。
 して見ると歴史的研究は前のような弊もあるが、けっして閑却すべからざるものでありますから、私の希望を云うと、歴史を研究するならばその研
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