究の結果して、綜合的《そうごうてき》に現代精神とはこんなもので、この精神がないものはほとんど文学として通用しないものだと云う事を指摘して事実の上に証明したいのであります。私の現代精神と云うのは、今月もしくは先月新らしくできた作物そのものについて、この作物は現代精神をあらわしている云々というような論じ方ではありません。過去一二世紀に渡って、(もしくはもっと溯《さかのぼ》っても、よろしい)、人の心を動かした有名な傑作を通覧してその特性(一つでなくてもよろしい。また矛盾|併立《へいりつ》していても差支《さしつかえ》ない)を見出して行く事であります。そうすると一年や十年の流行以上に比較的永久な創作の要素がざっと明暸《めいりょう》になるだろうと思います。少なくとも吾々の子もしくは孫時代までは変らない特性が出てくるだろうと思います。もし標準が必要とあるならば、これでこそ多少の標準ができるとも云い得るでしょう。こう云う手数をして現代精神を極めたからと云って、それより以前に出たものには現代精神がないと云う訳にはならない。たとえばダンテの神曲に見えるような考を持っている人は今の世にはたくさんない。また神曲の真似《まね》をした作物を出そうと云う男もありますまい。しかしあの神曲のうちから、現代精神を引き出せばいくらでも出て来るにきまっている。今の人の心に訴える箇所はすなわち現代精神であります。デカメロンそのままを春陽堂から出版したって読み手はないにきまっている。しかしあの中に現代精神すなわち種々な点において吾人を動かす自然派のような所はいくらでもあります。ずっと昔に溯《さかのぼ》ってホーマーはどうです。全体から云うとむしろ馬鹿気ている。誰もイリアッドが書いて見たいと云う人もあるまいが、そのイリアッドがやはり現代の人に読み得るところ、読んで面白いところ、読んで拍案の概があるところ、浪漫的《ロマンチック》なところ、が少なくはなかろうと思う。こう考えて見ると作物は時代の新旧ばかりで評をするよりも現代精神にリファーして評価すべき事となります。そうしてこの現代精神は実を云うと、読者がめいめい胸の中にもっている。ただ茫乎漠然《ぼうこばくぜん》たるある標準になって這入《はい》っているのだから、私の申出しはこの茫乎漠然たるものを歴史的の研究で、もっと明暸に、もっと一般に通用するものにしたいと云う動議にほ
前へ
次へ
全71ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング