かならんのであります。諸君の御存じのブランデスと云う人の書いた十九世紀文学の潮流という書物があります。読んで見るとなかなか面白い。独乙《ドイツ》の浪漫派だとか、英吉利《イギリス》の自然派だとか表題をつけて、その表題の下に、いくたりも人間の頭数を並べて論じてあります。これで面白いのでありますが、私が読んで妙に思ったのは、こう一題目の下に括《くく》られてしまっては括られた本人が押し込められたなり出る事ができないような気がした事です。英吉利の自然派はけっして独乙の浪漫派と一致する事は許さぬ。一点も共通なところがあってはならぬと云わぬばかりの書き方のように感じられました。無論ブランデスの評した作家はかくのごとく水と油のように区別のあったものかも知れない。しかしながら、こう書かれると自然派へ属するものは浪漫派を覗《のぞ》いちゃならない。浪漫派へ押し込めたものは自然派へ足を出しちゃ駄目だと、あたかも先天的にこんな区別のあるごとく感ぜられて、後世の筆を執《と》って文壇に立つものも截然《せつぜん》とどっちかに片づけなければならんかのごとき心持がしますからして、ちょっと誤解を生じやすくなります。さればといってこの二派が先天的に哲理上こう違うから微塵《みじん》も一致するものでないという理窟《りくつ》も書いてなし、また理論上文芸の流派は是非こう分化するものだとも教えてくれない。ただ著者が諸家の詩歌文章を説明する条《くだ》りを、そうですかそうですかと聞いているようなものでありました。しかしこれは少し困る。例《たと》えば学派を分けてあれは早稲田派だ、これは大学派だとしてすましているようなものであります。それほど判然たる区別があるかないか分らないが、よしあったにしても早稲田派と大学派は或る点において同じ説を吐いてはならないと圧《お》しつけるのみか、たとい実際は同じ説でも、なに違ってるよ。早稲田だもの、大学だものとただ名前だけできめてしまう弊が起りやすい。私の現代精神の綜合《そうごう》と云うのは、この弊を救うためで、一方ではこの窮窟な束縛を解くと同時に、名に叶《かの》うたる実を有する主義主張を並立せしめようとするためであります。
けれども、こういう研究は私にはちょっと臆劫《おっくう》でなかなかできないから、歴史的に行くと自然現代の西洋作家を実価以上に買《か》い被《かぶ》る弊《へい》が起りやすい
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