だろうと思います。そこで歴史的研究以外の立場から創作家の態度を御話する事にしました。
 (二)[#(二)は縦中横] もう一つ歴史的研究に対して非難したいのは、ちと哲学者じみますが、こう云う事であります。すべての歴史は与えられた事実であります。すでに事実である以上は人間の力でどうする事もできない。儼《げん》として存在しているから、この点において争うべからざる真であります。しかしながらこれが唯一《ゆいいつ》の真であるかと云うのが問題なのであります。言葉を改めて云うと人類発展の痕迹《こんせき》はみんな一筋道に伸びて来るものだろうかとの疑問であります。もしそうだと云う断定ができれば日本の歴史すなわち西洋の歴史、西洋の歴史すなわち希臘《ギリシャ》の歴史と云う事に帰着します。けれども多数の人は、これら各国の歴史を皆事実と首肯すると共に、ことごとく差違あるものと見傚《みな》すだろうと考えます。もっともこの各国の歴史から共通の径路を抽象して人類の発展の方向は必ず[#「必ず」に傍点]、こういう筋を通るものだとは云われましょう。しかしそれだからといって日本も、支那も、英吉利《イギリス》も、独乙《ドイツ》も、同じ現象を同じ順序に過去で繰《く》り返《かえ》しているとは参らんのであります。あまり雲を攫《つか》むような議論になりますから、もう少し小さな領分で例を引いて御話を致しますが、日本の絵画のある派は西洋へ渡って向うの画家にはなはだ珍重されているし、また日本からはわざわざ留学生を海外に出して西洋の画を稽古《けいこ》しています。そうして御互に敬服しあっています。両方で及ばないところがあるからでしょう。それは、どうでも善いが、日本の画を元のままで抛《なげう》っておいて、西洋の画を今の通|打《う》ち遣《や》っておいたら、両方の歴史がいつか一度は、どこかで出逢《であ》う事があるでしょうか。日本にラファエルとかヴェラスケスのような人間が出て、西洋に歌麿《うたまろ》や北斎のごとき豪傑があらわれるでしょうか。ちと無理なようであります。それよりも適当な解釈は、西洋にラファエルやヴェラスケスが出たればこそ今日のような歴史が成立し、また歌麿や北斎が日本に生れたから、浮世絵の歴史がああ云う風になったと逆に論じて行く方がよくはないかと存じます。したがってラファエルが一人出なかったら、西洋の絵画史はそれだけ変化を受
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