うせい》に応ずるような調子で出て行かなければ旨《うま》く行かない。人間の歴史はこう云う連鎖で結びつけられているのだから、けっして切り放して見てもその価値は分りません。仰山《ぎょうさん》に言うと一時間の意識はその人の生涯《しょうがい》の意識を包含していると云っても不条理ではありません。したがって人には現在が一番価値があるように思われる。一番意味があるごとく感ぜられる。現在がすべての標準として適当だと信じられる。だから明日《あした》になると何だ馬鹿馬鹿しい、どうして、あんな気になれたかと思う事がよくあります。昔《むか》し恋をした女を十年たって考えると、なぜまあ、あれほど逆上《のぼせ》られたものかなあと感心するが、当時はその逆上がもっともで、理の当然で、実に自然で、絶対に価値のある事としか思われなかったのであります。一国の歴史で申しても、一国内の文学だけの歴史で申してもこれと同様の因果《いんが》に束縛されているのはもちろんであります。現代の仏蘭西《フランス》人が革命当時の事を考えたら無茶だと思うかも知れず。また浪漫派の勝利を奏したエルナニ事件を想像しても、ああ熱中しないでもよかろうくらいには感ずるだろうと思います。がこれが因果であって見れば致し方がない。ただ気をつけてしかるべき事は、自分の心的状態がまだそんな廻り合せにならないのに、人の因果を身に引き受けて、やきもき焦《あせ》るのは、多少|他《ひと》の疝気《せんき》を頭痛に病むの傾《かたむ》きがあるように思います。ところが歴史的研究だけを根本義として自己の立脚地を定めようとすると、わるくするとこの弊に陥り安いようであります。というものは現に研究している事が自分の歴史なら善《よ》かろうが人の歴史である。人はそれぞれ勝手な因を蒔《ま》いて果を得て、現在を標準として得意である。それを遠くから研究して、彼の現在が、こうだから自分の現在もそうしなければならないとなると、少し無理ができます。自己の傾向がそこへ向いていないのに、向いていると同様の仕事をしなければならなくなる。云わば御付合になる。酷評を加えると自分から出た行為動作もしくは立場でなくって、模傚《もこう》になる。物真似《ものまね》に帰着する。もとより我々は物真似が好きに出来上っているから、しても構わない。時と場合によると物真似をする方がその間の手数と手続と、煩瑣《はんさ》な過
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