わないで使っています。してみるとどこか似たところがあるに違ない。その似たところを考えて見たらこの両面の叙述の差が判然するだろうと思います。人の心を石に比較するのに、比較にならんように思うのは、我々が石についての経験を、我から非我の世界に抛《な》げ出す態度、すなわち我以外に一塊の動かすべからざる石と名づくるものが存在していると見傚《みな》すからではありますまいか。すでに抛げ出されて石と名づけられたる以上、我の態度が我から非我に向って働らく以上は、石はどこまでも石で、どうしても人の心に比較されよう訳がないのであります。我々の石についての経験は堅いとか、冷たいとか、素気《そっけ》ないとかいう属性から構成されているのは無論でありますが、いやしくもこの属性が石の属性で、石の意義を明暸ならしむるものと相場がきまってしまえば、もう融通は利《き》きません。どうしても石を離れる事ができなくなります。石を離れる事ができないとすると、まるで性質の違った心を形容する訳には参りません。堅いのは石が堅いので、冷たいのもやはり石が冷たいんだから、その堅さ冷さを石から奪って、心に与える訳には参りません。しかしひとたび立場を変えて、その堅さ冷たさを石から[#「から」に傍点]経験したとすれば、自分が石を認めたんでなくって、石が自分を冒《おか》したとすれば、冷たいのは自分の冷たさで、堅いのも自分の堅さであるから、ひとたび石の経験に触れるや否や、石を離れて冷たい、堅いと云う心持ちだけになるから、いやしくもこれと同じ心持を起すものならば、移して何へでも使う事ができます。それで、あの人の心は石のようだと云う叙述が意味のあるものとなります。これは全く性質の違った比較をする場合で、むしろ極端であります。比較するものと比較されるものとの属性が一点もしくは一以上の諸点において、似ていれば似ているだけ客観的比較に近づく訳ですからして、漸々《ぜんぜん》 perceptual の叙述に縁がついて参ります。例《たと》えば先刻のあの人は虎のようだというような simile でも石と心の比較に比べると、幾分かは perceptual の方面へ向いております。なぜと云うと、虎は動物であり、人も動物であるという点において、すでに客観的価値のある比較であります。何も動物と云う概念がなくても構いません、寝るところが似ている、物を食うとこ
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