ろが似ている、歩くところが似ている以上は、客観的価値があります。いくら皮膚が似ていなくっても、足の恰好《かっこう》が似ていなくっても、髯《ひげ》の数が似ていなくっても、似ているところがあるだけそれだけ客観的価値のある比較であります。しかしながら、もし以上の点において類似を主張するならば、よりよき類似を主張する比較物はいくらでもあるはずであります。例えばあの人は父に似ているとかまたは母のごとしとか云う方が虎のごとしと云うよりも遥《はる》かに穏当《おんとう》であります。立派な perceptual な叙述ができるはずであります。しかるにこれを棄《す》てて客観的価値のもっとも少ない[#「客観的価値のもっとも少ない」に傍点]虎を持って来たのは、すべての不類似のうちに獰猛《ねいもう》の一点を撰択[#「撰択」に傍点]してもっとも大切な類似と認めたからであります。さてこの撰択[#「撰択」に傍点]は前に云った通り我々の注意できまるので、云い換えると我々の態度で決せられるのであります。ではこの際の態度は客観か主観かと云う問題になります。獰猛《ねいもう》を客観的に虎の属性と見傚《みな》せば獰猛はついに虎の獰猛であって、どうしても虎を離れる事はできません。その代り人間の獰猛もまた客観視する事ができますからして双方共我を離れたものとして比較ができます。しかし同一経験の方向を逆にして虎より受くる獰猛、人より受くる獰猛として、双方から来る心持だけを比較すると、主観の態度であります。だからこの場合においては、両方に見る事ができて、両方共正しいのであります。しかしながら実際はどうかと云うと、個人の習慣及びその時の模様によって、変化のあるのは無論でありますが、多くの場合に、多くの人が、多く主観の方に重きを置いているように思われます。だから私はこの種の比較に用いる虎なら虎を、客観的価値のもっとも少ないものであると云う訳で、また客観的価値のある局部をも主観的態度で注意する傾向があると云う訳で、この方面の叙述と見るのであります。石の例と虎の例でも分るごとくすでに主観の程度には厚薄があります。なお進んで月が鎌のようだと云う叙述に至るとまた一歩 perceptual の方へ近づいております。(面倒だから解剖は致しません)。かようにして漸々客観的価値を増すに従って、ついには perceptual の叙述に達する
前へ
次へ
全71ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング