ある以上は、その考え次第では、第二段に述べる conceptual な叙述を予想した事になりますが、これはその場合に至ってなるべく不都合のないように説明してみましょう。とかくにこの代理のものを用いると云う事は、純粋の叙述ではない、方便であるから、あまり厳密に考えると少しは破綻《はたん》が出そうであります。しかし実際的にはほとんど、私の主意を害する事のないのみか、かえって私の考を明暸に御分らせ申す結果になりますから、こう致しておきたい。のみならず、こうしておくと、片一方の主観的の方と比較するときに大変な好都合になるのであります。
 そうすると、帰着するところは、perceptual な叙述のもっとも簡便な形式は洋卓《テーブル》は唐机《とうづくえ》のごとしとか、※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]は赤茄子のごとしとか、驢《ろ》は騾《ら》のごとしとか、すべて眼に見、耳に聞き、手に触れ、口に味わい、鼻に嗅《か》いで得たる形相《ぎょうそう》をもって叙述する事になります。その一般の形式をAはBのごとしとしておきます。
 Perceptual な叙述に対する、主観的方面の叙述は何であるかと云うと、私はちょっと名前に窮するから、しばらく在来の修辞学に用いている直喩《ちょくゆ》(simile)という語を借用致します。しかし全然従来の simile とも思われないようですから、そのつもりで聞いていただきたい。普通修辞学者の説によると、似たものを似たもので説明するんだそうです。これだけならば※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]を赤茄子で説明したり、洋卓を唐机で説明するのと別段の相違もないようです。ところが実際の例を見ると、大分これとは趣を異にしているのがあります。あの人の心は石のようだ。あの男は虎のようだ。などと云うのがあります。そこでは私は第一段の主観的叙述をあらわすに simile と云う字を借用しました。これは普通 simile の下に取り扱われている叙述のあるものが、私のいわゆる第一段の主観的叙述と同傾向を有しているからと云うだけに過ぎません。さて今申した、あの人の心は石のようだと云う例をとって、調べて見ると、心と石を並べても比較しようがありません。またあの男は虎のようだと云う例にしてもその通り、虎と人間とはとうていいっしょになりようがない。けれども別に無理とも思
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