こまでも理想通りの人物を標榜《ひょうぼう》致します。ちと偽善になるようですが、悪徳の天真瀾漫《てんしんらんまん》よりは取り扱いやすいから結構です。中には腹の底で済んだなとさえ気がつかないでいるものもたくさんあったそうです。
この有様で御維新まで進んで参りました。それから科学が泰西から飛んで参りました。今日《こんにち》まで約四十年立ったので、大分趣が変って参りました。科学の訓練を経た眼で、人を見たり、自分を見たりする事が大分|流行《はや》って参りました。しかしこの精神が一般に行き渡っていないため、かつはあまり大切でないため今日まであまり進歩しておりません。なぜ大切でないかと考えて見ると面白いのであります。自分で自分の腹の中を検査して見ると、そう自慢になる事ばかりはありゃしません。自分ながらあさましい事もたくさん出て来ます。しかしいくら浅間しいものが見当った見当ったと云って触れて歩いたって、自分の恥になるばかりで、あまり発明家として尊敬を払っては貰えません。だからせっかく発見しても黙ってる方が得策であります。骨を折って、探がし当てて、自分一人で気持をわるくして、そうして苦《にが》い顔をして塞《ふさ》いでいるのも、あまり景気のいいものでもありませんから、つい遠慮が無沙汰《ぶさた》になりがちで、吾身で吾身が分ったような、分らないような心持でその日その日とぶらついております。こうしていれば、いつまで己惚れていたって、変事が起らない限りは大丈夫、己惚れつづけに己惚れて死ねますから、せっかく土をかけた所を掘り返して腐った死骸《しがい》をふんふん嗅《か》いで見るなんて、むく犬の所作《しょさ》をするには及ばん仕儀になります。私もその一人であります。私の妻もその一人であります。折々はあれでも令夫人かと思う事もありますから、向うでも、あれがわが郎君かと愛想をつかす事もあるんでしょう。それでも私は立派な夫《おっと》のつもりですましていますから、奥方の方でも天下の賢妻をもって自任しておられる事と存じます。かようの己惚《うぬぼれ》は存外多いもので、諸君まで私共の仲間へ引き入れるのは恐縮でありますが、なるべく勢力範囲を拡張しておく方が勝手でありますから、遠慮のないところを申しますと、滔々《とうとう》たる天下皆然りと申しても差支《さしつかえ》ないかも知れません。腹の奥の方では博士を宛にしていなが
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