ら、口の先では熱烈な恋だなどと云うのがあります。そうかと思うと持参金が欲しいような気分を打ち消して、なにあの令嬢の淑徳《しゅくとく》を慕うのさとすましきっています。それで偽善でも何でもない、両方共|真面目《まじめ》だから面白いものです。そこで我々のような観察力の鈍いものは、なるべく修養の功を積んで、それから、大胆な勇猛心を起して、赤裸々《せきらら》なところを恐れずに書く事を力《つと》める必要が出て参ります。
それでは今日の文学に客観的態度が必要ならば、客観的態度によって、どんな事を研究したらよかろうと云う問題になります。私は私の気のついた数カ条を御参考のために述べて、結末をつけます。
第一は性格の描写についてであります。これは小説とか劇とかに必要なもので、作家がこの点において成功すれば、過半の仕事はすでに結了したものとまで思われております。そこで俗に成功した性格とはどんなものかと調べて見ると活動の二字に帰着してしまいます。またどう考えてもこの二字以外には出られないように思います。しかし、活動にもいろいろあるがいかなる意味の活動か一と口に云えるかと聞かれると、少し臆断《おくだん》過ぎるようですが、私はこう答えても差支《さしつかえ》ないと考えます。普通の小説で、成功したものと称せられている性格の活動は大概矛盾のないと云う事と同一義に帰着する。これを他の言葉で云いますと、ある人が根本的にあるものを握っていて、千態万状の所作《しょさ》にことごとくこのあるものを応用する。したがって所作は千態万状であるが、これを奇麗《きれい》に統一する事ができる。しかもこれを統一するとこのあるものに落ちてしまう。なお言い換えると、描写された性格が一字もしくは二三字の記号につづまってしまう。勇気のある人、親切な人、吝嗇《りんしょく》な人と云った風に簡単になる、すなわち覚えやすくなる。まあ、こんなものではなかろうかと思います。つまりは、一篇の小説に一定の意味があって、この意味を一句につづめ得るのを愉快に思うように、同じく一句につづめ得る性格をかき終せたものが成功したような趣が大分あります。しかしこの意味で成功した性格は、個人性格の全面を写し出したものではありません。(特別の場合を除いては)個人の全面性格のある顕著な特性を任意に抽出《ちゅうしゅつ》して、抽出しただけを始めから終まで貫ぬかして、作
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