と志願するものはないから安心です。それじゃ善と悪の混血児《あいのこ》はというとほとんど出て来ないんだから、至極《しごく》単簡《たんかん》で重宝であります。こう云う訳で一家町内芝居へ出てくるような善人で成り立っていたのであります。それじゃ天下太平なものでありそうだのに、やっぱり夫婦喧嘩《ふうふげんか》も兄弟喧嘩もありました。あったに違なかろうと、まあ思うのです。しかもこの喧嘩が彼らが完全なる善人であったと云う証拠《しょうこ》になるから、不思議であります。ちとパラドックスになり過ぎますが、およそ喧嘩のもとは御互を完全の人間と認めて、さてやってみると案外予期に反するから起るのであります。だから喧嘩をするためには理想が必要であります。次にこの理想と実際とは一致しているものだと認める事が必要であります。今日も喧嘩は毎日ありますが、何も理想的人物でないから癪《しゃく》に障《さわ》るというような野暮《やぼ》は中学生徒のうちにも、まあないようで至極《しごく》便利になりました。その代り人間の相場はいささか下落致したようなものの結句こっちが住み安いかのように存ぜられます。ところが旧幕時代には、みんな理想的人物をもって目され、理想的人物をもって任じていたのでありますから、大変窮屈でございましたろう。何ぞと云うと、町人のくせになかと胸打などを喰います。女房のくせに何だむやみにふくれてなどとどやされます。子供のくせに何だ親に向って口答をしてなどとやり込められます。とかく何々のくせにと、くせが流行した世の中であります。癖に[#「癖に」に傍点]の流行《はや》る世の中ほど理想の一定した世の中はないのであります。町人はかくあるべきもの、女房はかくすべきもの、子供はかく仕えべきものと、杓子定規《しゃくしじょうぎ》で相場がきまっております。もっともこれは双方合意の上でなければ成立しない訳でありますから、町人の方でも、子供の方でも、女房の方でも、どんな理想的人物をもって予期されても、立派にその予期を充《み》たすつもりでいたのであります。したがって自分は天下一の孝行者で、天下一の貞女で、天下一の町人――は、ちとおかしいが、何しろ立派なものと心得ていたんでしょう。この己惚《うぬぼ》れていれば世話はない。たいていの事が否応《いやおう》なしに進行します。万事が腹の底で済んでしまいます。それで上部《うわべ》だけはど
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