ツ》あ、やに身体《からだ》がなまけやがって――まあ一ぷく御上《おあ》がんなさい。一人で志保田にいちゃ、退屈でしょう。ちと話しに御出《おいで》なせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同志でなくっちゃ、話しが合わねえものだから。何ですかい、やっぱりあの御嬢さんが、御愛想に出てきますかい。どうもさっぱし、見境《みさけえ》のねえ女だから困っちまわあ」
「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「違《ちげえ》ねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締りがねえったらねえ。――そこでその坊主が逆《のぼ》せちまって……」
「その坊主たあ、どの坊主だい」
「観海寺《かんかいじ》の納所坊主《なっしょぼうず》がさ……」
「納所《なっしょ》にも住持《じゅうじ》にも、坊主はまだ一人も出て来ないんだ」
「そうか、急勝《せっかち》だから、いけねえ。苦味走《にがんばし》った、色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前《おまえ》さん、レコに参っちまって、とうとう文《ふみ》をつけたんだ。――おや待てよ。口説《くどい》たんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違《ちげ》えねえ。すると――こうっと――何だか、行《い》きさつが少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと奴《やっこ》さん、驚ろいちまってからに……」
「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚ろくような女なら、殊勝《しお》らしいんだが、驚ろくどころじゃねえ」
「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説た方がさ」
「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。間違ってらあ。文《ふみ》をもらってさ」
「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに男がさ」
「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊主がさ」
「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で和尚《おしょう》さんと御経を上げてると、突然《いきなり》あの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても狂印《きじるし》だね」
「どうかしたのかい」
「そんなに可愛《かわい》いなら、仏様の前で、いっしょに寝ようって、出し抜けに、泰安《たいあん》さんの頸《くび》っ玉《たま》へかじりついたんでさあ」
「へええ」
「面喰《めんくら》ったなあ、泰安さ。気狂《きちげえ》に文をつけて、飛んだ恥を掻《か》かせられて、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」
「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも云えない」
「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴《さ》えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」
「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、根《ね》が気が違ってるんだから、洒唖洒唖《しゃあしゃあ》して平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、滅多《めった》にからかったり何《なん》かすると、大変な目に逢いますよ」
「ちっと気をつけるかね。ははははは」
 生温《なまぬる》い磯《いそ》から、塩気のある春風《はるかぜ》がふわりふわりと来て、親方の暖簾《のれん》を眠《ねむ》たそうに煽《あお》る。身を斜《はす》にしてその下をくぐり抜ける燕《つばめ》の姿が、ひらりと、鏡の裡《うち》に落ちて行く。向うの家《うち》では六十ばかりの爺さんが、軒下に蹲踞《うずく》まりながら、だまって貝をむいている。かちゃりと、小刀があたるたびに、赤い味《み》が笊《ざる》のなかに隠れる。殻《から》はきらりと光りを放って、二尺あまりの陽炎《かげろう》を向《むこう》へ横切る。丘のごとくに堆《うずた》かく、積み上げられた、貝殻は牡蠣《かき》か、馬鹿《ばか》か、馬刀貝《まてがい》か。崩《くず》れた、幾分は砂川《すながわ》の底に落ちて、浮世の表から、暗《く》らい国へ葬られる。葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。爺さんは貝の行末《ゆくえ》を考うる暇さえなく、ただ空《むな》しき殻を陽炎《かげろう》の上へ放《ほう》り出す。彼《か》れの笊《ざる》には支《ささ》うべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑《のど》かと見える。
 砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、参差《しんし》として幾尋《いくひろ》の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、腥《なまぐさ》き微温《ぬくもり》を与えつつあるかと怪しまれる。その間から、鈍刀《どんとう》を溶《と》かして、気長にのたくらせたように見えるのが海の色だ。
 この景色とこの親方とはとうてい調和しない。もしこの親方の人格が強烈で四辺《しへん》の風光と拮抗《きっこう》するほどの影響を余の頭脳に与えたならば、余は両者の間に立ってすこぶる円※[#「木+内」、第3水準1−85−54]方鑿《えんぜいほうさく》の感に打たれただろう。幸《さいわい》にして親方はさほど偉大な豪傑ではなかった。いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然《こんぜん》として駘蕩《たいとう》たる天地の大気象には叶《かな》わない。満腹の饒舌《にょうぜつ》を弄《ろう》して、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵《いちみじん》となって、怡々《いい》たる春光《しゅんこう》の裏《うち》に浮遊している。矛盾とは、力において、量において、もしくは意気|体躯《たいく》において氷炭相容《ひょうたんあいい》るる能《あた》わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在《あ》って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく※[#「さんずい+斯」、第3水準1−87−16]※[#「壟」の「土」に代えて「石」、第3水準1−89−17]磨《しじんろうま》して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人《たいじん》の手足《しゅそく》となって才子が活動し、才子の股肱《ここう》となって昧者《まいしゃ》が活動し、昧者の心腹《しんぷく》となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽《こっけい》を演じている。長閑《のどか》な春の感じを壊《こわ》すべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半《やよいなか》ばに呑気《のんき》な弥次《やじ》と近づきになったような気持ちになった。この極《きわ》めて安価なる気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]家《きえんか》は、太平の象《しょう》を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。
 こう考えると、この親方もなかなか画《え》にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと尻《しり》を据《す》えて四方八方《よもやま》の話をしていた。ところへ暖簾《のれん》を滑《すべ》って小さな坊主頭が
「御免、一つ剃《そ》って貰おうか」
と這入《はい》って来る。白木綿の着物に同じ丸絎《まるぐけ》の帯をしめて、上から蚊帳《かや》のように粗《あら》い法衣《ころも》を羽織って、すこぶる気楽に見える小坊主であった。
「了念《りょうねん》さん。どうだい、こないだあ道草あ、食って、和尚《おしょう》さんに叱《しか》られたろう」
「いんにゃ、褒《ほ》められた」
「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」
「道理《どうれ》で頭に瘤《こぶ》が出来てらあ。そんな不作法な頭あ、剃《す》るなあ骨が折れていけねえ。今日は勘弁するから、この次から、捏《こ》ね直して来ねえ」
「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」
「はははは頭は凹凸《ぼこでこ》だが、口だけは達者なもんだ」
「腕は鈍いが、酒だけ強いのは御前《おまえ》だろ」
「箆棒《べらぼう》め、腕が鈍いって……」
「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。年甲斐《としがい》もない」
「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
「ええ?」
「全体《ぜんてえ》坊主なんてえものは、高い石段の上に住んでやがって、屈托《くったく》がねえから、自然に口が達者になる訳ですかね。こんな小坊主までなかなか口幅《くちはば》ってえ事を云いますぜ――おっと、もう少し頭《どたま》を寝かして――寝かすんだてえのに、――言う事を聴《き》かなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」
「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ一人前《いちにんめえ》じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」
「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その後《のち》発憤して、陸前《りくぜん》の大梅寺《だいばいじ》へ行って、修業三昧《しゅぎょうざんまい》じゃ。今に智識《ちしき》になられよう。結構な事よ」
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前《おめえ》なんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――女ってえば、あの狂印《きじるし》はやっぱり和尚《おしょう》さんの所へ行くかい」
「狂印《きじるし》と云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂《みそすり》だ。行くのか、行かねえのか」
「狂印《きじるし》は来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら、和尚さんの御祈祷《ごきとう》でもあればかりゃ、癒《なお》るめえ。全く先《せん》の旦那が祟《たた》ってるんだ」
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒《ほ》めておられる」
「石段をあがると、何でも逆様《さかさま》だから叶《かな》わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂《きちげえ》は気狂《きちげえ》だろう。――さあ剃《す》れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行って賞《ほ》められよう」
「勝手にしろ、口の減《へ》らねえ餓鬼《がき》だ」
「咄《とっ》この乾尿※[#「木+厥」、第3水準1−86−15]《かんしけつ》」
「何だと?」
 青い頭はすでに暖簾《のれん》をくぐって、春風《しゅんぷう》に吹かれている。

        六

 夕暮の机に向う。障子も襖《ふすま》も開《あ》け放《はな》つ。宿の人は多くもあらぬ上に、家は割合に広い。余が住む部屋は、多くもあらぬ人の、人らしく振舞《ふるま》う境《きょう》を、幾曲《いくまがり》の廊下に隔てたれば、物の音さえ思索の煩《わずらい》にはならぬ。今日は一層《ひとしお》静かである。主人も、娘も、下女も下男も、知らぬ間《ま》に、われを残して、立ち退《の》いたかと思われる。立ち退いたとすればただの所へ立ち退きはせぬ。霞《かすみ》の国か、雲の国かであろう。あるいは雲と水が自然に近づいて、舵《かじ》をとるさえ懶《ものう》き海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き境《さかい》に漂《ただよ》い来て、果《は》ては帆みずからが、いずこに己《おの》れを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ――そんな遥《はる》かな所へ立ち退いたと思われる。それでなければ卒然と春のなかに消え失せて、これまでの四大《しだい》が、今頃は目に見えぬ霊氛《れいふん》となって、広い天地の間に、顕微鏡《けんびきょう》の力を藉《か》るとも、些《さ》の名残《なごり》を留《とど》めぬようになったのであろう。あるいは雲雀《ひばり》に化して、菜《な》の花の黄《き》を鳴き尽したる後《のち》、夕暮深き紫のたなびくほとりへ行ったかも知れぬ。または永き日を、かつ永くする虻《あぶ》のつとめを果したる後、蕋《ずい》に凝《こ》る甘き露を吸い損《そこ》ねて、落椿《おちつばき》の下に、伏せられながら、世を香《かん》ばしく眠っているかも知れぬ。とにかく静かなものだ。
 空《むな》しき家を、空しく抜ける春風《はるかぜ》の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。拒
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