ワあ、窮屈《きゅうくつ》な世界だこと、横幅《よこはば》ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹《かに》ね」と云って退《の》けた。余は
「わはははは」と笑う。軒端《のきば》に近く、啼《な》きかけた鶯《うぐいす》が、中途で声を崩《くず》して、遠き方《かた》へ枝移りをやる。両人《ふたり》はわざと対話をやめて、しばらく耳を峙《そばだ》てたが、いったん鳴き損《そこ》ねた咽喉《のど》は容易に開《あ》けぬ。
「昨日《きのう》は山で源兵衛に御逢《おあ》いでしたろう」
「ええ」
「長良《ながら》の乙女《おとめ》の五輪塔《ごりんのとう》を見ていらしったか」
「ええ」
「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。何のためか知らぬ。
「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
「婆さんが教えましたか。あれはもと私のうちへ奉公したもので、私がまだ嫁に……」と云いかけて、これはと余《よ》の顔を見たから、余は知らぬ風《ふう》をしていた。
「私がまだ若い時分でしたが、あれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。うただけはなかなか覚えなかったのですが、何遍も聴《き》くうちに、とうとう何もかも諳誦《あんしょう》してしまいました」
「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は憐《あわ》れな歌ですね」
「憐れでしょうか。私ならあんな歌は咏《よ》みませんね。第一、淵川《ふちかわ》へ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾《おとこめかけ》にするばかりですわ」
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」
「なるほどそれじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」
「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」
 ほーう、ほけきょうと忘れかけた鶯《うぐいす》が、いつ勢《いきおい》を盛り返してか、時ならぬ高音《たかね》を不意に張った。一度立て直すと、あとは自然に出ると見える。身を逆《さかし》まにして、ふくらむ咽喉《のど》の底を震《ふる》わして、小さき口の張り裂くるばかりに、
 ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうーと、つづけ様《さま》に囀《さえ》ずる。
「あれが本当の歌です」と女が余に教えた。

        五

「失礼ですが旦那《だんな》は、やっぱり東京ですか」
「東京と見えるかい」
「見えるかいって、一目《ひとめ》見りゃあ、――第一《だいち》言葉でわかりまさあ」
「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町《したまち》じゃねえようだ。山《やま》の手《て》だね。山の手は麹町《こうじまち》かね。え? それじゃ、小石川《こいしかわ》? でなければ牛込《うしごめ》か四谷《よつや》でしょう」
「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう見《め》えて、私《わっち》も江戸っ子だからね」
「道理《どうれ》で生粋《いなせ》だと思ったよ」
「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな田舎《いなか》へ流れ込んで来たのだい」
「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから髪結床《かみゆいどこ》の親方かね」
「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は神田松永町《かんだまつながちょう》でさあ。なあに猫の額《ひたい》見たような小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに竜閑橋《りゅうかんばし》てえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代《なだい》な橋だがね」
「おい、もう少し、石鹸《しゃぼん》を塗《つ》けてくれないか、痛くって、いけない」
「痛うがすかい。私《わっち》ゃ癇性《かんしょう》でね、どうも、こうやって、逆剃《さかずり》をかけて、一本一本|髭《ひげ》の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時《いまどき》の職人なあ、剃《す》るんじゃねえ、撫《な》でるんだ。もう少しだ我慢おしなせえ」
「我慢は先《さっき》から、もうだいぶしたよ。御願だから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。全体《ぜんてい》、髭があんまり、延び過ぎてるんだ」
 やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚《たな》の上から、薄《うす》っ片《ぺら》な赤い石鹸を取り卸《お》ろして、水のなかにちょっと浸《ひた》したと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応撫で廻わした。裸石鹸を顔へ塗りつけられた事はあまりない。しかもそれを濡《ぬ》らした水は、幾日前《いくにちまえ》に汲《く》んだ、溜め置きかと考えると、余りぞっとしない。
 すでに髪結床《かみゆいどこ》である以上は、御客の権利として、余は鏡に向わなければならん。しかし余はさっきからこの権利を放棄したく考えている。鏡と云う道具は平《たい》らに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。もしこの性質が具《そな》わらない鏡を懸《か》けて、これに向えと強《し》いるならば、強いるものは下手《へた》な写真師と同じく、向うものの器量を故意に損害したと云わなければならぬ。虚栄心を挫《くじ》くのは修養上一種の方便かも知れぬが、何も己《おの》れの真価以下の顔を見せて、これがあなたですよと、こちらを侮辱《ぶじょく》するには及ぶまい。今余が辛抱《しんぼう》して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向《あおむ》くと蟇蛙《ひきがえる》を前から見たように真平《まったいら》に圧《お》し潰《つぶ》され、少しこごむと福禄寿《ふくろくじゅ》の祈誓児《もうしご》のように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間《あいだ》は一人でいろいろな化物《ばけもの》を兼勤《けんきん》しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥《は》げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極《きわ》めている。小人《しょうじん》から罵詈《ばり》されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒《つうよう》を感ぜぬが、その小人《しょうじん》の面前に起臥《きが》しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。
 その上この親方がただの親方ではない。そとから覗《のぞ》いたときは、胡坐《あぐら》をかいて、長煙管《ながぎせる》で、おもちゃの日英同盟《にちえいどうめい》国旗の上へ、しきりに煙草《たばこ》を吹きつけて、さも退屈気《たいくつげ》に見えたが、這入《はい》って、わが首の所置を托する段になって驚ろいた。髭《ひげ》を剃《そ》る間は首の所有権は全く親方の手にあるのか、はた幾分かは余の上にも存するのか、一人で疑がい出したくらい、容赦《ようしゃ》なく取り扱われる。余の首が肩の上に釘付《くぎづ》けにされているにしてもこれでは永く持たない。
 彼は髪剃《かみそり》を揮《ふる》うに当って、毫《ごう》も文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。揉《も》み上《あげ》の所ではぞきりと動脈が鳴った。顋《あご》のあたりに利刃《りじん》がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱《しもばしら》を踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
 最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な臭《にお》いがする。時々は異《い》な瓦斯《ガス》を余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時《なんどき》、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我《けが》なら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛《のどぶえ》でも掻《か》き切られては事だ。
「石鹸《しゃぼん》なんぞを、つけて、剃《す》るなあ、腕が生《なま》なんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ放《ほう》り出すと、石鹸は親方の命令に背《そむ》いて地面の上へ転《ころ》がり落ちた。
「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「二三日《にさんち》前来たばかりさ」
「へえ、どこにいるんですい」
「志保田《しほだ》に逗《とま》ってるよ」
「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな事《こっ》たろうと思ってた。実あ、私《わっし》もあの隠居さんを頼《たよっ》て来たんですよ。――なにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの解ったね。去年|御新造《ごしんぞ》が死んじまって、今じゃ道具ばかり捻《ひね》くってるんだが――何でも素晴らしいものが、有るてえますよ。売ったらよっぽどな金目《かねめ》だろうって話さ」
「奇麗《きれい》な御嬢さんがいるじゃないか」
「あぶねえね」
「何が?」
「何がって。旦那の前《めえ》だが、あれで出返《でもど》りですぜ」
「そうかい」
「そうかいどころの騒《さわぎ》じゃねえんだね。全体なら出て来なくってもいいところをさ。――銀行が潰《つぶ》れて贅沢《ぜいたく》が出来ねえって、出ちまったんだから、義理が悪《わ》るいやね。隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、法返《ほうがえ》しがつかねえ訳《わけ》になりまさあ」
「そうかな」
「当《あた》り前《めえ》でさあ。本家の兄《あにき》たあ、仲がわるしさ」
「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一遍|石鹸《しゃぼん》をつけてくれないか。また痛くなって来た」
「よく痛くなる髭《ひげ》だね。髭が硬過《こわす》ぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度は是非|剃《そり》を当てなくっちゃ駄目ですぜ。わっしの剃で痛けりゃ、どこへ行ったって、我慢出来っこねえ」
「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く逗留《とうりゅう》する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事《こ》った。碌《ろく》でもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」
「どうして」
「旦那あの娘は面《めん》はいいようだが、本当はき[#「き」に傍点]印《じる》しですぜ」
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂《きちげえ》だって云ってるんでさあ」
「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、現《げん》に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草《たばこ》でも呑《の》んで御出《おいで》なせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」
「頭はよそう」
「頭垢《ふけ》だけ落して置くかね」
 親方は垢《あか》の溜《たま》った十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨《ずがいこつ》の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の境《きょう》を巨人の熊手《くまで》が疾風の速度で通るごとくに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が生《は》えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫《めめずばれ》にふくれ上った上、余勢が地磐《じばん》を通して、骨から脳味噌《のうみそ》まで震盪《しんとう》を感じたくらい烈《はげ》しく、親方は余の頭を掻き廻わした。
「どうです、好い心持でしょう」
「非常な辣腕《らつわん》だ」
「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
「そんなに倦怠《けったる》うがすかい。全く陽気の加減だね。どうも春てえ奴《や
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