慮なく四方へのして真中に黄色な珠《たま》を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座《ちんざ》している。呑気《のんき》なものだ。また考えをつづける。
 詩人に憂《うれい》はつきものかも知れないが、あの雲雀《ひばり》を聞く心持になれば微塵《みじん》の苦《く》もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍《おど》るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物《けいぶつ》に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥《くたび》れて、旨《うま》いものが食べられぬくらいの事だろう。
 しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一|幅《ぷく》の画《え》として観《み》、一|巻《かん》の詩として読むからである。画《が》であり詩である以上は地面《じめん》を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲《ひともう》けする了見《りょうけん》も起らぬ。ただこの景色が――腹の足《た》しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色と
前へ 次へ
全217ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング