してのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴《ともな》わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊《たっ》とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶《とうや》して醇乎《じゅんこ》として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局《きょく》に当れば利害の旋風《つむじ》に捲《ま》き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩《くら》んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解《げ》しかねる。
 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観《み》て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚《たな》へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
 それすら、普通の芝居や小説では人情を免《まぬ》かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄《とりえ》は利慾が交《まじ》らぬと云う点に存《そん》するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒
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