ネい。
 彼は髪剃《かみそり》を揮《ふる》うに当って、毫《ごう》も文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。揉《も》み上《あげ》の所ではぞきりと動脈が鳴った。顋《あご》のあたりに利刃《りじん》がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱《しもばしら》を踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
 最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な臭《にお》いがする。時々は異《い》な瓦斯《ガス》を余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時《なんどき》、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我《けが》なら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛《のどぶえ》でも掻《か》き切られては事だ。
「石鹸《しゃぼん》なんぞを、つけて、剃《す》るなあ、腕が生《なま》なんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ放《ほう》り出すと、石鹸は親方の命令に背《そむ》いて地面の上へ転
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