離れつ舞い上がる。途端《とたん》にわが部屋の襖《ふすま》はあいたのである。襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余の方《かた》に転じた。視線は毒矢のごとく空《くう》を貫《つらぬ》いて、会釈《えしゃく》もなく余が眉間《みけん》に落ちる。はっと思う間に、小女郎が、またはたと襖を立て切った。あとは至極《しごく》呑気《のんき》な春となる。
余はまたごろりと寝ころんだ。たちまち心に浮んだのは、
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Sadder than is the moon's lost light,
Lost ere the kindling of dawn,
To travellers journeying on,
The shutting of thy fair face from my sight.
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と云う句であった。もし余があの銀杏返《いちょうがえ》しに懸想《けそう》して、身を砕《くだ》いても逢わんと思う矢先に、今のような一瞥《いちべつ》の別れを、魂消《たまぎ》るまでに、嬉しとも、口惜《くちお》しとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう。その上に
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