までここにいたのだね」
「へえ」
「それは御気の毒な事をした。それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい」
「知りません」
「それから」
「何でござんす」
「それから、まだほかに何かするのだろう」
「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
 会話はこれで切れる。飯はようやく了《おわ》る。膳を引くとき、小女郎が入口の襖《ふすま》を開《あけ》たら、中庭の栽込《うえこ》みを隔《へだ》てて、向う二階の欄干《らんかん》に銀杏返《いちょうがえ》しが頬杖《ほおづえ》を突いて、開化した楊柳観音《ようりゅうかんのん》のように下を見詰めていた。今朝に引き替《か》えて、はなはだ静かな姿である。俯向《うつむ》いて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、相好《そうごう》にかほどな変化を来たしたものであろうか。昔の人は人に存するもの眸子《ぼうし》より良きはなしと云ったそうだが、なるほど人|焉《いずく》んぞ※[#「广+叟」、第3水準1−84−15]《かく》さんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。寂然《じゃくねん》と倚《よ》る亜字欄《あじらん》の下から、蝶々《ちょうちょう》が二羽寄りつ
前へ 次へ
全217ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング