あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年|御亡《おな》くなりました」
「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
「へえ」
「御客はいるかい」
「おりません」
「わたし一人かい」
「へえ」
「若い奥さんは毎日何をしているかい」
「針仕事を……」
「それから」
「三味《しゃみ》を弾《ひ》きます」
 これは意外であった。面白いからまた
「それから」と聞いて見た。
「御寺へ行きます」と小女郎《こじょろう》が云う。
 これはまた意外である。御寺と三味線は妙だ。
「御寺|詣《まい》りをするのかい」
「いいえ、和尚様《おしょうさま》の所へ行きます」
「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
「じゃ何をしに行くのだい」
「大徹様《だいてつさま》の所へ行きます」
 なあるほど、大徹と云うのはこの額を書いた男に相違ない。この句から察すると何でも禅坊主《ぜんぼうず》らしい。戸棚に遠良天釜《おらてがま》があったのは、全くあの女の所持品だろう。
「この部屋は普段誰か這入《はい》っている所かね」
「普段は奥様がおります」
「それじゃ、昨夕《ゆうべ》、わたしが来る時
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