五六段手にとるように見える。大方《おおかた》御寺だろう。
 入口の襖《ふすま》をあけて椽《えん》へ出ると、欄干《らんかん》が四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を隔《へだ》てて、表二階の一間《ひとま》がある。わが住む部屋も、欄干に倚《よ》ればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。湯壺《ゆつぼ》は地《じ》の下にあるのだから、入湯《にゅうとう》と云う点から云えば、余は三層楼上に起臥《きが》する訳になる。
 家は随分広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、居室《いま》台所は知らず、客間と名がつきそうなのは大抵《たいてい》立て切ってある。客は、余をのぞくのほかほとんど皆無《かいむ》なのだろう。|〆《しめ》た部屋は昼も雨戸《あまど》をあけず、あけた以上は夜も閉《た》てぬらしい。これでは表の戸締りさえ、するかしないか解らん。非人情の旅にはもって来いと云う屈強《くっきょう》な場所だ。
 時計は十二時近くなったが飯《めし》を食わせる景色はさらにない。ようやく空腹を覚えて来たが、空山《くうざん》不見人《ひとをみず》と云う詩中にあると思うと、一とかたげ
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