。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否《いな》やうれしくなる。涙を十七字に纏《まと》めた時には、苦しみの涙は自分から遊離《ゆうり》して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉《うれ》しさだけの自分になる。
 これが平生《へいぜい》から余の主張である。今夜も一つこの主張を実行して見ようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。出来たら書きつけないと散漫《さんまん》になっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。
「海棠《かいだう》の露をふるふや物狂《ものぐる》ひ」と真先《まっさき》に書き付けて読んで見ると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるい事もない。次に「花の影、女の影の朧《おぼろ》かな」とやったが、これは季が重《かさ》なっている。しかし何でも構わない、気が落ちついて呑気《のんき》になればいい。それから「正一位《しやういちゐ》、女に化《ば》けて朧月《おぼろづき》」と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。
 この調子なら大丈夫と乗気《のりき》になって出るだけの句をみなかき付ける。
[#ここから2字下げ]
春の星を落して夜半《よは》のかざしかな

前へ 次へ
全217ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング