余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰《だ》れが見ても、誰《だれ》に聞かしても饒《ゆたか》に詩趣を帯びている。――孤村《こそん》の温泉、――春宵《しゅんしょう》の花影《かえい》、――月前《げつぜん》の低誦《ていしょう》、――朧夜《おぼろよ》の姿――どれもこれも芸術家の好題目《こうだいもく》である。この好題目が眼前《がんぜん》にありながら、余は入《い》らざる詮義立《せんぎだ》てをして、余計な探《さ》ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟《りくつ》の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪《わ》るさが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も標榜《ひょうぼう》する価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴《ふいちょう》する資格はつかぬ。昔し以太利亜《イタリア》の画家サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を賭《かけ》にして、山賊の群《むれ》に這入《はい》り込んだと聞いた事がある。飄然《ひょうぜん》と画帖を懐《ふところ》にして家を出《い》でたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。
 こんな時にどうすれば
前へ 次へ
全217ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング