単に客観的に眼前《がんぜん》に思い浮べるから文学美術の材料になる。世には有りもせぬ失恋を製造して、自《みず》から強《し》いて煩悶《はんもん》して、愉快を貪《むさ》ぼるものがある。常人《じょうにん》はこれを評して愚《ぐ》だと云う、気違だと云う。しかし自から不幸の輪廓を描《えが》いて好《この》んでその中《うち》に起臥《きが》するのは、自から烏有《うゆう》の山水を刻画《こくが》して壺中《こちゅう》の天地《てんち》に歓喜すると、その芸術的の立脚地《りっきゃくち》を得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。われわれは草鞋旅行《わらじたび》をする間《あいだ》、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曾遊《そうゆう》を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々《ちょうちょう》して、したり顔である。これはあえて自《みずか》ら欺《あざむ》くの、人を偽《いつ》わるのと云う了見《りょうけん》ではない。旅行をする間は
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