もかくもと抜け出でた布団の穴に、再び帰参《きさん》して考え出した。括《くく》り枕《まくら》のしたから、袂時計《たもとどけい》を出して見ると、一時十分過ぎである。再び枕の下へ押し込んで考え出した。よもや化物《ばけもの》ではあるまい。化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。あるいは此家《ここ》の御嬢さんかも知れない。しかし出帰《でがえ》りの御嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当《ふおんとう》だ。何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。怪《け》しからん。
怖《こわ》いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄《すご》い事も、己《おの》れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画《え》になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿《やど》るところやら、憂《うれい》のこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢《あふ》るるところやらを、
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