ばなるほど、耳だけになっても、あとを慕《した》って飛んで行きたい気がする。もうどう焦慮《あせっ》ても鼓膜《こまく》に応《こた》えはあるまいと思う一刹那《いっせつな》の前、余はたまらなくなって、われ知らず布団《ふとん》をすり抜けると共にさらりと障子《しょうじ》を開《あ》けた。途端《とたん》に自分の膝《ひざ》から下が斜《なな》めに月の光りを浴びる。寝巻《ねまき》の上にも木の影が揺れながら落ちた。
障子をあけた時にはそんな事には気がつかなかった。あの声はと、耳の走る見当を見破ると――向うにいた。花ならば海棠《かいどう》かと思わるる幹を背《せ》に、よそよそしくも月の光りを忍んで朦朧《もうろう》たる影法師《かげぼうし》がいた。あれかと思う意識さえ、確《しか》とは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み砕《くだ》いて右へ切れた。わがいる部屋つづきの棟《むね》の角《かど》が、すらりと動く、背《せい》の高い女姿を、すぐに遮《さえぎ》ってしまう。
借着《かりぎ》の浴衣《ゆかた》一枚で、障子へつらまったまま、しばらく茫然《ぼうぜん》としていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。と
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