く、文句をきくと――枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。――その聞えぬはずのものが、よく聞える。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良《ながら》の乙女《おとめ》の歌を、繰り返し繰り返すように思われる。
 初めのうちは椽《えん》に近く聞えた声が、しだいしだいに細く遠退《とおの》いて行く。突然とやむものには、突然の感はあるが、憐《あわ》れはうすい。ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。これと云う句切りもなく自然《じねん》に細《ほそ》りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒《びょう》を縮め、分《ふん》を割《さ》いて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なんとする病夫《びょうふ》のごとく、消えんとしては、消えんとする灯火《とうか》のごとく、今やむか、やむかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨《うら》みをことごとく萃《あつ》めたる調べがある。
 今までは床《とこ》の中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。細くなれ
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