》も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
そこで眼が醒《さ》めた。腋《わき》の下から汗が出ている。妙に雅俗混淆《がぞくこんこう》な夢を見たものだと思った。昔し宋《そう》の大慧禅師《だいえぜんじ》と云う人は、悟道の後《のち》、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。文芸を性命《せいめい》にするものは今少しうつくしい夢を見なければ幅《はば》が利《き》かない。こんな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら、寝返りを打つと、いつの間にか障子《しょうじ》に月がさして、木の枝が二三本|斜《なな》めに影をひたしている。冴《さ》えるほどの春の夜《よ》だ。
気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛《まぎ》れ込んだのかと耳を峙《そばだ》てる。たしかに誰かうたっている。細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の夜《よ》に一縷《いちる》の脈をかすかに搏《う》たせつつある。不思議な事に、その調子はとにか
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