たった一軒だったね」
「へえ、志保田《しほだ》さんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」
「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
「旦那は始めてで」
「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」
会話はちょっと途切《とぎ》れる。帳面をあけて先刻《さっき》の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴《きこ》え出した。この声がおのずと、拍子《ひょうし》をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端《はじ》に、
[#ここから2字下げ]
春風や惟然《いねん》が耳に馬の鈴
[#ここで字下げ終わり]
と書いて見た。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがて長閑《のどか》な馬子唄《まごうた》が、春に更《ふ》けた空山一路《くうざんいちろ》の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画《え》にかいた声だ。
[#ここから2字下げ]
馬子唄《まごうた》の鈴鹿《すずか
前へ
次へ
全217ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング