ざ》して、遠く向うを指《ゆびさ》している、袖無し姿の婆さんを、春の山路《やまじ》の景物として恰好《かっこう》なものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端《とたん》に、婆さんの姿勢は崩れた。
 手持無沙汰《てもちぶさた》に写生帖を、火にあてて乾《かわ》かしながら、
「御婆さん、丈夫そうだね」と訊《たず》ねた。
「はい。ありがたい事に達者で――針も持ちます、苧《お》もうみます、御団子《おだんご》の粉《こ》も磨《ひ》きます」
 この御婆さんに石臼《いしうす》を挽《ひ》かして見たくなった。しかしそんな注文も出来ぬから、
「ここから那古井《なこい》までは一里|足《た》らずだったね」と別な事を聞いて見る。
「はい、二十八丁と申します。旦那《だんな》は湯治《とうじ》に御越《おこ》しで……」
「込み合わなければ、少し逗留《とうりゅう》しようかと思うが、まあ気が向けばさ」
「いえ、戦争が始まりましてから、頓《とん》と参るものは御座いません。まるで締め切り同様で御座います」
「妙な事だね。それじゃ泊《と》めてくれないかも知れんね」
「いえ、御頼みになればいつでも宿《と》めます」
「宿屋は
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