取り残されていた。
 婆さんは袖無《そでな》しの上から、襷《たすき》をかけて、竈《へっつい》の前へうずくまる。余は懐《ふところ》から写生帖を取り出して、婆さんの横顔を写しながら、話しをしかける。
「閑静でいいね」
「へえ、御覧の通りの山里《やまざと》で」
「鶯《うぐいす》は鳴くかね」
「ええ毎日のように鳴きます。此辺《ここら》は夏も鳴きます」
「聞きたいな。ちっとも聞えないとなお聞きたい」
「あいにく今日《きょう》は――先刻《さっき》の雨でどこぞへ逃げました」
 折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯《さっ》と風を起して一尺あまり吹き出す。
「さあ、御《お》あたり。さぞ御寒かろ」と云う。軒端《のきば》を見ると青い煙りが、突き当って崩《くず》れながらに、微《かす》かな痕《あと》をまだ板庇《いたびさし》にからんでいる。
「ああ、好《い》い心持ちだ、御蔭《おかげ》で生き返った」
「いい具合に雨も晴れました。そら天狗巌《てんぐいわ》が見え出しました」
 逡巡《しゅんじゅん》として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山《ぜんざん》の一角《い
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