ニ眼を見合せた。眼を見合せた両人《ふたり》の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の鮒《ふな》も宿《やど》る余地がない。一行の舟は静かに太公望《たいこうぼう》の前を通り越す。
 日本橋《にほんばし》を通る人の数は、一|分《ぷん》に何百か知らぬ。もし橋畔《きょうはん》に立って、行く人の心に蟠《わだか》まる葛藤《かっとう》を一々に聞き得たならば、浮世《うきよ》は目眩《めまぐる》しくて生きづらかろう。ただ知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句《けっく》日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何らの説明をも求めなかったのは幸《さいわい》である。顧《かえ》り見ると、安心して浮標《うき》を見詰めている。おおかた日露戦争《にちろせんそう》が済むまで見詰める気だろう。
 川幅《かわはば》はあまり広くない。底は浅い。流れはゆるやかである。舷《ふなばた》に倚《よ》って、水の上を滑《すべ》って、どこまで行くか、春が尽きて、人が騒いで、鉢《は》ち合せをしたがるところまで行かねばやまぬ。腥《なまぐさ》き一点の血を眉間《みけん
前へ 次へ
全217ページ中207ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング