ホそれで結構である。と唸《うな》りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払《せきばらい》が聞えた。こいつは驚いた。
 寝返《ねがえ》りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木《ぞうき》の間から、一人の男があらわれた。
 茶の中折《なかお》れを被《かぶ》っている。中折れの形は崩《くず》れて、傾《かたむ》く縁《へり》の下から眼が見える。眼の恰好《かっこう》はわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。藍《あい》の縞物《しまもの》の尻を端折《はしょ》って、素足《すあし》に下駄がけの出《い》で立《た》ちは、何だか鑑定がつかない。野生《やせい》の髯《ひげ》だけで判断するとまさに野武士《のぶし》の価値はある。
 男は岨道《そばみち》を下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。しかしあれが散歩の姿であろうか。またあんな男がこの近辺《きんぺん》に住んでいるとも考えられない。男は時々立ち留《どま》る。首を傾ける。または四方を見廻わす
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