して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保《たも》つ。ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡《がり》の人にもあらず。依然として市井《しせい》の一|豎子《じゅし》に過ぎぬ。雲煙飛動の趣《おもむき》も眼に入《い》らぬ。落花啼鳥《らっかていちょう》の情けも心に浮ばぬ。蕭々《しょうしょう》として独《ひと》り春山《しゅんざん》を行く吾《われ》の、いかに美しきかはなおさらに解《かい》せぬ。初めは帽を傾けて歩行《あるい》た。後《のち》にはただ足の甲《こう》のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目《まんもく》の樹梢《じゅしょう》を揺《うご》かして四方《しほう》より孤客《こかく》に逼《せま》る。非人情がちと強過ぎたようだ。
二
「おい」と声を掛けたが返事がない。
軒下《のきした》から奥を覗《のぞ》くと煤《すす》けた障子《しょうじ》が立て切ってある。向う側は見えない。五六足の草鞋《わらじ》が淋《さび》しそうに庇《ひさし》から吊《つる》されて、屈托気《くったく
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