だ。
 路は存外《ぞんがい》広くなって、かつ平《たいら》だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂《あまだ》れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子《まご》がふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡《ぬ》れたね」
 まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は影画《かげえ》のように雨につつまれて、またふうと消えた。
 糠《ぬか》のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋《ひとすじ》ごとに風に捲《ま》かれる様《さま》までが目に入《い》る。羽織はとくに濡れ尽《つく》して肌着に浸《し》み込んだ水が、身体《からだ》の温度《ぬくもり》で生暖《なまあたたか》く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行《ある》く。
 茫々《ぼうぼう》たる薄墨色《うすずみいろ》の世界を、幾条《いくじょう》の銀箭《ぎんせん》が斜《なな》めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏《よ》まれる。有体《ありてい》なる己《おの》れを忘れ尽《つく》
前へ 次へ
全217ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング