蛯、。――この一夜《ひとよ》と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜《いくよ》を重ねてこそと云う」
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語《ことば》なんです。――真夜中の甲板《かんぱん》に帆綱を枕にして横《よこた》わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確《しか》と把《と》りたる瞬時が大濤《おおなみ》のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強《し》いられたる結婚の淵《ふち》より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉《と》ずる。――」
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様《さま》である。攫《さら》われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
 轟《ごう》と音がして山の樹《き》がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端《とたん》に、机の上の一輪挿《い
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