轣Aちっとも趣《おもむき》がない」
「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹《いちまつ》の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石《とんぼだま》の空のなかに円《まる》き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳《そび》えたる鐘楼《しゅろう》が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏《きせつ》の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方《かた》に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺《ゆら》ぐ海は泡《あわ》を濺《そそ》がず。男は女の手を把《と》る。鳴りやまぬ弦《ゆづる》を握った心地《ここち》である。……」
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭《いや》なら少々略しましょうか」
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六《む》ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、御略《おりゃく》しなさい」
「ええ、いい加減にやりまし
前へ
次へ
全217ページ中144ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング