Aその他には何事をも語らぬ。

        九

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几《さんきゃくき》に縛《しば》りつけた、書物の一冊を抽《ぬ》いて読んでいた。
「御這入《おはい》りなさい。ちっとも構いません」
 女は遠慮する景色《けしき》もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟《はんえり》の中から、恰好《かっこう》のいい頸《くび》の色が、あざやかに、抽《ぬ》き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開《あ》けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しま
前へ 次へ
全217ページ中139ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング