やおや》へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募《つの》ってはおらん。こんな所でも人間に逢《あ》う。じんじん端折《ばしょ》りの頬冠《ほおかむ》りや、赤い腰巻《こしまき》の姉《あね》さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の檜《ひのき》に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑《の》んだり吐いたりしても、人の臭《にお》いはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵《こよい》の宿は那古井《なこい》の温泉場《おんせんば》だ。
 ただ、物は見様《みよう》でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言《ことば》に、あの鐘《かね》の音《おと》を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第《みようしだい》でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路《うきよこうじ》の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見《おのうはいけん》の時くらいは淡い心持ちにはなれそ
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