泛《うか》べてこの桃源《とうげん》に溯《さかのぼ》るものはないようだ。余は固《もと》より詩人を職業にしておらんから、王維《おうい》や淵明《えんめい》の境界《きょうがい》を今の世に布教《ふきょう》して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人《ひとり》絵の具箱と三脚几《さんきゃくき》を担《かつ》いで春の山路《やまじ》をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間《ま》でも非人情《ひにんじょう》の天地に逍遥《しょうよう》したいからの願《ねがい》。一つの酔興《すいきょう》だ。
 もちろん人間の一分子《いちぶんし》だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳《わけ》には行かぬ。淵明だって年《ねん》が年中《ねんじゅう》南山《なんざん》を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪《たけやぶ》の中に蚊帳《かや》を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生《は》えた筍《たけのこ》は八百屋《
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