tに眺めぬうちに神往の余韻《よいん》はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂《かつら》の都《みやこ》を逃れた月界《げっかい》の嫦娥《じょうが》が、彩虹《にじ》の追手《おって》に取り囲まれて、しばらく躊躇《ちゅうちょ》する姿と眺《なが》めた。
 輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥《じょうが》が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那《せつな》に、緑の髪は、波を切る霊亀《れいき》の尾のごとくに風を起して、莽《ぼう》と靡《なび》いた。渦捲《うずま》く煙りを劈《つんざ》いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向《むこう》へ遠退《とおの》く。余はがぶりと湯を呑《の》んだまま槽《ふね》の中に突立《つった》つ。驚いた波が、胸へあたる。縁《ふち》を越す湯泉《ゆ》の音がさあさあと鳴る。

        八

 御茶の御馳走《ごちそう》になる。相客《あいきゃく》は僧一人、観海寺《かんかいじ》の和尚《おしょう》で名は大徹《だいてつ》と云うそうだ。俗《ぞく》一人、二十四五の若い男である。
 老人の部屋は、余が室《しつ》の廊下を右
前へ 次へ
全217ページ中122ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング