ツいても満は損を招くとの諺《ことわざ》はこれがためである。
 放心《ほうしん》と無邪気とは余裕を示す。余裕は画《え》において、詩において、もしくは文章において、必須《ひっすう》の条件である。今代芸術《きんだいげいじゅつ》の一大|弊竇《へいとう》は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、拘々《くく》として随処に齷齪《あくそく》たらしむるにある。裸体画はその好例であろう。都会に芸妓《げいぎ》と云うものがある。色を売りて、人に媚《こ》びるを商売にしている。彼らは嫖客《ひょうかく》に対する時、わが容姿のいかに相手の瞳子《ひとみ》に映ずるかを顧慮《こりょ》するのほか、何らの表情をも発揮《はっき》し得ぬ。年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満している。彼らは一秒時も、わが裸体なるを忘るる能《あた》わざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんと力《つと》めている。
 今余が面前に娉※[#「女+亭」、第3水準1−15−85]《ひょうてい》と現われたる姿には、一塵もこの俗埃《ぞくあい》の眼に遮《さえ》ぎるものを帯びておらぬ。常の人の纏《まと》える
前へ 次へ
全217ページ中119ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング